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考える葦は「悩むのやめなよ」に救われない

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ネガティブは悪いもの。ポジティブは善いもの。

その感覚に違和感を覚えて生きてきた。「ポジティブにいこうよ」と切り替えることは、私にはもったいなく感じる。だって思考するせっかくのチャンスなのに。

悩みは悪いものじゃない。少なくとも私にとっては。何にも悩まない状態も心地よいけれど、深く潜って思考している状態も自分には必要な時間。「悩みなんて」と軽んじるものではない。

他人から見ると、果てしなく悩んで貴重な時間を浪費してるように見えるのかもしれない。「その時間でもっと楽しいことすればいいのに」。「自分次第で楽しい時間は作れるのに」と。

けれど、本人としてはゴールがぼんやりと見えているというか、自分の行き着くところまでの距離感はなんとなく掴めている。思考できる状態は永遠に続くわけではないと、感覚で知っている。だからこそ掴めそうなその時は、チャンスを逃さず深く潜りたい。

嫌だったことの何が嫌だったのか。怒ったことの何に怒ったのか。傷付いている単語は何なのか。心の奥で何を望んでいたのか。

自分と対話して、誰かの言葉を読んで、気持ちを紐解いて、 適切な言葉を見付ける。私にとってはその作業こそが精神安定への道だと思っている。  

だからこそ、どう気持ちが変化していったか、答えを得る前のピースがはまっていく過程を、迷い道含めて逐一書き残しておきたくなる。何よりもその時の自分の気持ちというものを大切にしたいと思っている。全部愛おしい自分の感情だから。

 

趣味だからこそ悩みたくない人と、趣味だからこそ悩みたい人がいる

世の中には「ファンをやってる限り楽しい面だけを見たいし、大切なものが辛くなるくらいならやめる」人がいる。そして、私のように「ファンだからこそ悩むことも多いけど、大切に思っている証拠だからきちんと考えたい」人もいる。

それは、ファンとしてのスタンス云々以前の問題で、「辛いから考えない」と「辛いから考える」という人間性の違いだと思う。

前者は、たぶんけっこういる。そして市民権を得ている、ように感じる。そういう人は、モヤモヤした気持ちを書き残したりはしない。感じても、コントロールして、考えないようにする。

後者は、批評したり、苦言を呈したりをあえてしたくなる。何かが気に入らなかったら、どう気に入らなかったのか、どうしてほしいのか、要望を出すわけでもなく改善案を練ったりする。

タイプの違う人間同士、お互い相容れないかもしれない。特に、気持ちを切り替える派からすると、後者のタイプはネガティブな思考というマイナス行動を自らとっているように見えているかもしれない。

でもそれは、自然に任せるとそうなるだけのこと。上向き、下向き、どちらに矢印を向けるかはもちろん自分で決められるけれど、自分にとってより自然な方を向きやすいということ。

どちらのタイプも、生きやすくするための工夫をしている点では同じ。ネガティブとポジティブ、どちらが偉いわけでもないと思う。

 

だから、押し付けないでほしい。自分にとって必要なことは自分で決める。

何を好きでいて何に傷付くか。それを理解するまで傷付いたままでいることも選択肢の一つとして尊重してほしい。 

「そんな辛い状態でなんでまだファンやってるの?趣味なのに」「なんでそんな辛そうにファンやってるの?やめれば?」時には直接、時には遠巻きに、そんな言葉を向けられることがあるけれど、それが優しさからくる言葉だとしても「あんなもののどこが好きなの?やめれば?」と同じくらい余計なお世話。救ってあげたいというそのお気持ちだけありがたく頂きたい。

だって、救われないから。思考することをやめたら、考える葦は幸せになれないから。

 

悲しいことを考えないようにするのは、考えないタイプの人にとっての生きる術。

私は、悲しいことに直面した時に、どうして自分が涙を流しているのか突き止めたい。考えた末に原因が分かると、悲しみはただの悲しみではなくなる。イライラも、傷も自分の構成要素として解析することができる。そして、全ての出来事が、自分を構成する一部に見えてくる。

きっと、その根底にあるのは、自分を分かってあげたい。もっと自分を知りたい、という気持ち。欲望に正直に自分を愛しているからこそ、自分について思考したいんだと思う。

 

だから、傷付いた出来事をいつまでも引きずる私は、自分なりに自分を大切にしているということ。 

そのネガティブを、親切にしろお節介にしろ、やめさせようとしてくれなくていいということ。

ましてや、自分なりの「ファンやめる」基準がしっかりしてるからといって、他人に「私ならファンやめるけど」って言ってこなくていいからね。

 

その手段がいかに異なっていようとも

かつてパスカルはこう唱えた。

「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」

「すべての人間は幸福を求めている。これには例外がない。その手段がいかに異なっていようとも、みなこの目的に向かっている。意志は、この目的に向かってでなければ、一歩も前へ進まない。これはあらゆる人間の、みずから首をくくろうとする人に致るまでの、あらゆる行為の動機である」

私も、私なりの手段で、幸福という目的を目指している。

例え誰かから見れば不幸な状態に見えても、自分なりの方法で幸せ目指して歩いているんだ。 

 

残念ながら「考えるのやめなよ」というありがたいアドバイスは、私にとって救いの言葉にはならない。

でも誰かにとっての救いにはなる。それでええじゃないか、同じじゃなくたって。

小難しく考えようとする葦も、気を楽にすることに努めようとする葦も、“自然の中で最も弱いひとくきの葦にすぎない”のだから。

私という一本の葦は、受け止め、感じて、考える葦としてこれからも生きる。

そしていつか、幸せになる。幸せを知る葦になる。

 

ことばにできない想いを持て余してるなら

それは自分だけのうた見つけ出す鍵に変わる 

 『私は丘の上から花瓶を投げる』 / 坂本真綾

私は丘の上から花瓶を投げる

私は丘の上から花瓶を投げる