関ジャニ∞「十五祭」名古屋3DAYSに行ってまいりました!
札幌の初日前から1週間情報を絶っていたので、参戦済みの方の感想は全く分からない状態で。
ナゴヤドーム前にたどり着くと、ずらりと並ぶフラッグやのぼり、フォトスポット、写真撮影禁止の物販看板も可愛くて可愛くて、あぁお祭りが始まったんだ…!と心底ワクワクしました。
かわいい!ナゴヤドーム pic.twitter.com/PlNpEsF2uO
— 奏ポルカ@十五祭ネタバレ中 (@polka8dot) 2019年7月19日
のぼり旗!年上組 pic.twitter.com/1GZS39mgl5
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のぼり旗!年下組!空模様はよくない pic.twitter.com/ItmT9nfIRW
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開演前のドーム内も楽しませる用意がいっぱいで。まだこれからの方は、是非とも早めに入場していただきたいなと思います。
待ってる気がしない待ち時間、すごくない?あっという間に開演時刻を迎えました。
どういう風に感想を書こうかなと考えたんですが、自分的初日からいきなり3DAYS連続参戦して意外と細かいところまで記憶に残ってるので、レポというか、曲ごとの話はまた別の機会に。
ここでは、雑感として全体についての感想を書いておきたいと思います。
曲名や細かい演出は伏せますが、察しの良い方には伝わってしまう部分もあると思うので、まったくのネタバレ禁の方は、以下お気を付けください。
※スクロールするとポエムが始まります※
▼いつか夢で見た光景
ビックリしたのは「私このライブ観たことある…!知ってる…!」っていう感覚が、時々あったことです。
既に自分の中にあったもののような気がしたというか。
「こんな演出で、この曲を披露してくれたらいいのに」と、自分の中で育ててきた画が実現した。
“まさかこれは、夢では?現実の私は、まだ十五祭を迎えていないのでは??”とすら思いました。
同時に、過去のライブDVDを観ているような気持ちにもなりました。
ファンになってから家で一人ときめいて、“その時その場に居たかったのに間に合わなかった”と後悔した楽しさが、タイムマシンのように2019年の今、やってきた。
ライブDVDなら買って集めることができるけど、リリース当時の歌番組は追いつきようがないものも多く、その時にファンだった人しかちゃんと観たことないオリジナルの振付に憧れがあったり。
そういう一つ一つの思い入れが現実になっていく。
願っていたことが、目の前でいくつも叶っていく様を目の当たりにして、嬉しいという感情を通り越して、不思議な気持ちでした。
これまで一人で聴いて楽しんでいたカップリング曲、幻のユニット曲、昔の曲…観客一人一人が十五周年の分だけそれぞれ積み上げてきた思い入れを、ステージに上げてくれて昇華させてくれるような、十五祭はそんなライブでした
— 奏ポルカ@十五祭ネタバレ中 (@polka8dot) 2019年7月19日
「ぼくのかんがえたさいきょうのじゅうごさい」が叶った上で、その更に上を行く驚きや喜びも山ほど提供してくれて。
予想外のところから来るというよりは、来たらいいなと願っていたものが特上でやってきた、みたいな感覚。
フルコースといおうか、満漢全席といおうか、とにかくお腹いっぱいでこれ以上欲しいものが思いつかない!
ものすごく簡単に言うならば、私は“10周年新規”です。
なので、10周年から15周年という一括りに途中参加し、2018年から2019年の今、ファンとしても一つめの節目を迎えたんだと思います。
ボスを倒した後に無事セーブした時のような、よいしょっと越える瞬間の気持ち良さを感じています。
良いね、周年。歴史の立会人になれた気がしてぐっとくる。
もし、いつか実現したらいいな、の“いつか”が“今”だった。
「完璧」に近い何かを体感し、あぁ、今ここに私がいられて、年表の“2019年‐15周年”に参加できて、本当に良かったと思いました。
▼練習と本番と
すごく充実したセットリスト。
去年のツアーからアルバムも無く、シングルも少なく、音楽的な露出も多くはない中で発表された『十五祭』というタイトルに、あまりコンセプトや感情が見えないような気がしたのだけど、今はこのたった3文字がカラフルに色付いて見える。
ファンの求めていたカップリング曲やアルバム曲すなわち埋もれ曲、未披露曲、昔ながらのファンが楽しめる懐かし曲、そういうものをぎゅっと箱に詰めて、楽しいのリボンをかけてプレゼントにしてくれたのが十五祭なんだろうな
— 奏ポルカ@十五祭ネタバレ中 (@polka8dot) 2019年7月19日
たくさん準備してきたのがよくわかる。
当然、OPの映像なんかは随分前に発注をかけていたんだろうし、ということはずっとずっと前から今回のコンサートで解禁するものの方針は決定していたということで。
時間をかけてコンサートの細部まで丁寧につくったということが、観ていたらすごく伝わってくる。
キラキラしていて、大胆で、楽しい以外のことを感じさせる暇がないくらい。
そうやって、3時間の特別な時間にぎゅっと詰め込んでくれたものは、愛じゃないかなと思うのです。
改めて、私たちのアイドルは最高の仕事人であると確信しました。
見えるところのみならず、その何倍もの時間をかけて、見えないところで良い仕事してくれてるんです。
コンサートって、本番よりも練習や、それ以前の打ち合わせにかける時間の方がずっとずっと長い。
初披露曲のリハは勿論、過去曲の振り起こしも大量にやったんだろうなぁ。大変だっただろうなぁ。他の仕事の合間を縫って打ち合わせを重ねて、いつから私たちのこと考えてくれていたのかなぁ。
エイターを喜ばせようと動いてくれている時間の全てを把握することはファンにはできないけれど、喜ばせようとサプライズの準備をしてくれていた時間そのものが愛しい。
▼色の数を数えて
去年のGR8ESTツアーは、すばるくん抜きでどういうものを見せるのか、ヤスくんの身体事情を抱えてどれだけのものを見せられるのかという大きな課題があって。
ライブに漂う、忘れられない、重苦しい緊張感。
それこそ何を見てもずーっと泣き通しで(それだけ心が弱っていたんだろうけど)、同じく初日に向かう人同士で「楽しみましょうね!」と声をかけ合うのがためらわれるような、辛い現実を見つめに行く側面のあるライブ空間でした。
だから今回、わりとずっと笑って、曲の世界観やパフォーマンスの質に集中できるコンサートってすごく楽しいなと思いました。
1年前のライブでは、明らかに「不在」が存在していました。
メンバーにも観客にも何処かにあった「“居なくて大丈夫”にならなくてはならない」という強がりが、逆に彼の存在感を濃くしていた。
そこに居ない人のことを50006人が想っていた。
今年はもう、影の姿はありませんでした。
その代わり、実像がありました。
内くんもすばるくんも、去った時期は違えど、集まった時期は同じ、仲間。15週年を迎えるタイミングで居ないだけで、当時は心強い味方だった。
それは、新規にも分かるくらい、当たり前のことです。
だけど、最新のメンバー構成を肯定するあまり、その当たり前を縛ってしまう時があって、不自由さに繋がっていた。
自分たちで決めたルールにすぎない”今のメンバーだけで”を取り払って、より自由になったのが今回のライブじゃないでしょうか。
「内くんもすばるくんも、居て当たり前、居なくて当たり前」
殊更に排除せず、全てを歴史だと受け入れる。
加工しないありのままの15年間を見せることが、今の彼らにとっての自然体だった。
今が常に最高で最強ということは、すなわち、過去のどの瞬間も最高で最強ということと同じなのではないかな。
GR8ESTツアーはベストアルバムツアーという性質上シングル曲中心だったし、需要に応えるというよりはその時やれる精一杯を見せることしかできない、ファンも現状を認識するので精一杯という形だったけど、1年後にここまで来れたことが本当に素晴らしいよ…十五祭が今のすべてであり未来への希望だよ
— 奏ポルカ@十五祭ネタバレ中 (@polka8dot) 2019年7月19日
常に「もっと最高で、もっと最強を」の期待に応え続けられる“関ジャニ∞”というチームを心から尊敬します。
八祭とも十祭とも違う、十五祭で本当に良かった。既に、まだ見ぬ十八祭や二十祭も楽しみになるくらい。
“GR8EST BABY”が“GR8EST BOY”に育ったように、GR8ESTな男たちはこれからもきっと強く大きくなり続けていくのでしょう。
▼重荷から創る
長く続けるということ。
積み重ねてきた分が重荷になる、そういう一面もあるでしょう。
実際、もしかしたらすばるくんは足枷から解き放たれたのかもしれない。
でも。どんなものでも使いようなんですね、きっと。
歴史は、きっとそれ自体に意味はなくて、最新部分の状態によって、これまでの事象に意味ができてくるんです。
だから、十五祭で過去の色んなことをエンターテインメントに昇華できたということが、今が最高で最強であることの証である。そんな気がします。
関ジャニ∞、豊かだなって感じました。
“継続”って、矯めた分だけすごい力になるんだ。
想像ですよ、想像ですけど。
これまでに背負ってきたもの全ては、投げ出したくなるような重みかもしれない。どこにも逃げ出せないほどの重りになっているかもしれない。チームは肥大し、契約した仕事に縛られ、自分で自分を決められないことに、ひょっとしたら苦しんでいるのかもしれない。グループで長年続けるということは、そういうメンバーが居たっておかしくないんです。
だけど、私が十五祭から感じたのは、良い意味での軽やかさでした。
今回のライブでは、すごく色々なことをいっぺんにたくさんクリアしたんですね。
新しい歌割り自体が見せ場になっていた去年のツアーよりも、軽く、楽しく。あの曲も、あの曲も、さらりと見せてくれたんです。
ツアーを通して克服していくのではなく、既に知らないところで乗り越えてきていたんです。
強くないですか?パンフに載ってたあのMC、すごくないですか?
ああいう風に、さらりと触れる姿が見たかったんですよね、ずっと。
なんだか現実が美しすぎて夢みたい。
これまでに集めてきた全ては、自由になるための材料にもなりえるのだと。
出会いも別れも、美しい花に変えることができるのだと。
これだけの具材を持っていればなんにでもできる。発想の転換ひとつ、見せ方ひとつでどうとでもアレンジできるのだと。
……テトリス……
あの、テトリスってね?
(※ここから亮ちゃんの声で想像してください)(急に!?)
積み上げてしまうと駄目になるんですよ。
時間経過でね、落ちてきて、積み上がっていくものを放置してたらただのガラクタなんですけど、上手く活用してあげたら逆にポイント源になる。うん。
むしろ、ここまでいけるかなーってね、ギリギリまで積み上げた方が、そこから攻める力にもなるんです。
っていう、「ピンチはチャンス」って言葉を、単にちょっと難しく言っただけなんですけど、うん。
(※亮ちゃん終了)(急に!!)
そういうことなんですよね。あるものをどう使うかっていう。
使う力があるのなら、材料はあればあるほど良い。
同じ場所でずっと蓄えてきたからこそ、広げて見せられる夢がある。
ここにいること、かつ、広い世界を創ること。
関ジャニ∞には力があるから、そんな無茶ができる。
未来にもつながる希望を、“今”から受け取りました。
大丈夫。
15年を生きてきた関ジャニ∞は、まわりが心配するほど子どもじゃない 。
そう思います。
▼冬を越えて、暗い夜は明けて
十五祭の楽しさは、もしかすると苦しい去年があってこそなのかもしれません。
人生の酸い甘いが凝縮されているような、そんな1年でした。
だから、頑張って、頑張って、この夏を楽しく迎えられたことが何より嬉しい。
そうか。
十五歳になったのは、エイトだけじゃないんだ。
エイトと同じ年数の分だけ、エイターという集団も、それぞれ想いを積み重ねて、一歩ずつ進んで、生きているんだ。
この夏を迎えて分かったのは、残酷だけど確実に、時間は流れているんだということ。
人生は前にしか進まないということ。
毎日をきちんともがいていると、救いはきちんと訪れるということ。
関ジャニ∞もそうだし、私たち観客も等しく365日を過ごしていて。
その間に寂しくなったり、苦しさを感じたり、頑張ったり、泣いたり、そして笑ったり。同じ人間として、一人一人の今日をもがいている。
その先に待つ、優しく楽しいご褒美。
十五祭は、歳を重ねた私たち皆へのプレゼントなのかな。
そして、一回り大きくなった関ジャニ∞には祝福を。
「「「「「「十五歳おめでとう!」」」」 」」
この声を届けられるのは、いつか歴史になる今に立ち会えている、生き証人の特権。
▼最後に
抽象的な言葉ばかりになってすみません。
ネタバレを避けてふわふわした言葉選びになっている訳ではなく、なんとか感動を感情に定着させたくて、こういう感想になりました。
ここの安田さんがズルいくらい可愛いとかドエロいとか、今後はそういう話もちゃんとするので安心してくださいね(??????)。
俺たちの楽しい夏は、まだ始まったばかり。いや、始まるんじゃない、始めるんだぜ!